窮屈な生き方、ここに極まれり!■030810田村潔司VS吉田秀彦
ここはものすごく大切なところである。「Uを引き継いでいるんですよね。どうなんスかねぇ?」と、テレビ慣れした笑顔で語る吉田。それに相対するように、帽子を深くかぶって無精ヒゲでボソボソと語る田村。この風貌や語り口がついに世間に・・・ ※未公開作品
2003年8月10日。怒りが絶えない1日だった。ファンの怒りも、田村潔司本人の怒りも。何に対して、怒る必要があったのだろうか。
1995年の新日本プロレス対UWFインターナショナル団体抗争(対抗戦)勃発時、田村は出場を拒否。自団体(Uインター=格闘技ルール)の興行が対抗戦一色(プロレスルール)に染まっていくなか、第1試合で桜庭和志とのシングル(格闘技ルール)を闘っている。
新日本プロレスから前田日明が飛び出さないと始まらなかった、それがUWF(格闘技プロレス)というムーブメントだったはず。田村にとって、新日本と交わることは「死」を意味することだった。しかし、交わらなければ団体の中で居場所を確実に失う。選手生命を奪われかねない道を選んだ田村。そうすることで、プロレスの中の「総合格闘技」というスタイルを守ろうとした。いつしか彼は、「赤いパンツの頑固者」と呼ばれるようになる。
とにかく、あの薄暗い日本武道館の第1試合で闘っていた田村と桜庭。その2人がどうだ。4万人を集めた大会場で。地上波で即日放送されるほど注目されたPRIDEグランプリ開幕戦で。ラスト2試合にエントリーされているではないか。セミとメインを堂々と張っているではないか。
格闘家としては「勝ち組」とも言える桧舞台。何に対して、怒る必要があったのだろうか。いや、怒る必要があったのだ。
吉田秀彦のいう「柔道は4年に1度しか騒がれない」という主張はわかる。しかし、はっきり言えば、プロレスおよび総合格闘技は「万年騒がれない」ジャンルだった。明確に「スポーツ」とは区別(差別)されて扱われてきたし、テレビのスポーツニュースには登場しない。新聞でも一般紙には登場しない。
そんなジャンルを守ってきた田村が、世間を背負った吉田に負けるわけにはいかないのだ。
そんなジャンルを支えてきた田村ファンが、吉田にエールを送るわけにはいかないのだ。
吉田参戦が、総合格闘技というジャンルを押し上げてくれることは百も承知。しかし、それとこれとは別問題である。田村対吉田は、プロレス界と世間の戦争。
戦争に臨んだ田村の闘いは見事だった。勝てるチャンスを得ながらの敗北だっただけに、田村はマットを叩いて悔しがった。一方の吉田は、試合直後に足を抱えてマットに倒れている。しかし、田村の負けは負け。UWFから始まる総合格闘技のムーブメントは、キック・サブミッション・スープレックスを原点としながら、パンチを加えつつ“実戦”へと近づいていった。そんなジャンルの申し子である田村の敗北は、この上なく痛い。
PRIDEという舞台は、かくもハッピーエンドを許さない舞台なのか。負けた悔しさを抱え、ボクは帰路についた。だが、ボクには帰宅してからやるべきことがある。即日放送によってどんなメッセージが放たれたのか。そう、この日ばかりは、放送を見届けるまでがPRIDEグランプリである。
番組オープニングとして流れる、今大会の見所。「優勝大本命」シウバ、「リベンジに挑む」桜庭、「金メダリスト、もう一つの頂点へ」吉田、「K-1から参戦」ミルコ。ネームバリューで劣る田村は、番組冒頭には現われない。
番組中盤。田村対吉田。試合前VTRは会場と同じモノが流れるのだろうか。それとも番組冒頭と同じく、吉田にスポットを当てたものなのか。結果は、会場と同じモノだった。
ここはものすごく大切なところである。「Uを引き継いでいるんですよね。どうなんスかねぇ?」と、テレビ慣れした笑顔で語る吉田。それに相対するように、帽子を深くかぶって無精ヒゲでボソボソと語る田村。この風貌や語り口がついに世間に放たれた。
続いて、スーパーが画面に踊る。
「先鋭格闘技集団UWF」
「プロ総合格闘技を高田、桜庭らと作り上げた男」
「初代リングス無差別級チャンピオン」
こんなワーディングが堂々地上波のプライムタイムで流れる日を誰が想像しただろうか。
吉田を“先に”入場させて、田村が入ってくる。フジテレビのアナウンサーが実況する。
「吉田秀彦が柔道で世界の頂点に立った90年代、時を同じくして、プロレス、伝説の団体、UWFでリアルファイトを追究した男がいました。真剣勝負がしたくて、最強に憧れて、いまだ“U”の理想を具現化させようとする孤高の天才、田村潔司の入場です!」
リングインした田村は、入場テーマをかけさせたまま、いつものように四方に礼をする。ひとまわりした後は、恒例、対戦相手へのひと睨み。対戦相手を先に入場させたからこそできる“田村ムーブメント”が、ノーカット放映だ。
フジテレビアナウンサーは、この四方に礼をする時間帯を知らなかったのか。このシーンでは“実況シナリオ”が途絶え、しばらく実況なしで選手コールに突入する。
吉田をダウン寸前まで追い込んだ打撃。トリッキーなジャンピングしてのパスガード。堂々と構えてのローキック連打。そして飛び出した、ノーガードでの構え。全てが、田村ならではの、総合格闘技を背負ってこその動きだった。最高視聴率21.9%を記録するフィニッシュシーン寸前まで、その動きは続く。
そう、プロレスラーにとって、入場シーン、たたずまい、ファイティングスタイルという課程がものすごく大切なのである。プロレスとは「記憶」の積み重ねだからだ。一方、吉田がくしくも「優勝するためにいつも練習してきた」とコメントしたように、勝利という「記録」を世間は何よりも求めがちだ。
プロレスが「記憶」にこだわることができるのは、世間やオリンピックから離れて、「記憶」を拠り所にしか発展できないジャンルだから。「記憶」というプロセスなしに勝利という「記録」を手にしても、そこに意味はない。
そんな中で生きるプロレスラーとプロレスファンは、まったくもって窮屈な存在だが、田村はプロレス界の中でも特に窮屈な生き方を貫いてきた。田村の窮屈な生き方は、桧舞台でも変わらなかった。ありのままの姿が地上波に乗り、プロレスラー・プロレスファンの生き方が世間へと発信された。
2003年8月10日は、そんなとてつもない日だったのだ。
ボクにとっては、田村がテーマ曲を変えたとか、小太刀を持ってなかったとか、そんなことは小さいこと(きっと、味方であるファンに対しても窮屈な生き方を見せたかったのだろうけど)。怒りの表情で窮屈な生き方をファンとともに貫き、世間に対しても「記憶」に残る闘いを繰り広げた。いや、残るかどうかはどうでもいい。少なくとも、一方的に見せつけたのだ。
田村に乾杯。願わくば「赤いパンツの頑固者」というフレーズも放送して欲しかった。■□















































