4月4日はビッグマウス上井文彦氏の誕生日
4月4日はアントニオ猪木の引退試合の日であり、ビッグマウス代表・上井文彦氏の誕生日(52歳に)。おめでとうございます!
そんな感慨にひたることなく、4・19ビッグマウスラウド後楽園ホール大会のカード編成に奔走しているはず。
携帯サイト「プロレス・格闘技DX」(4/2更新分)から
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・ 先週も某プロレス団体の社長3人の社長さんとじっくりとお話をさせていただきました。いずれこの3人が誰なのかお話しする機会があるでしょうから、今回は内緒。
・ 最高に盛り上がった前回大会に負けないように、参戦する各選手が張り切って試合できるような対戦カードを用意したいと思います。
・ 新入団の原学選手には4・19から強敵ばかりのシングルをこなしてもらおうと思ってます。題して『原学~BMLの星になれ!』。
・ 特攻隊長の臼田選手には、特攻が似合う選手を組みたい。
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まだメインクラスの試合には触れられてない。個人的には、門馬秀貴vsアラン・カラエフとか見たいな。発表を待ちましょう。
4・19BML後楽園ホール大会まで、あと2週間!
誕生日記念、上井文彦氏のプロフィールまとめ。
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■上井文彦(うわい・ふみひこ)ストーリー
引用元:BIG MOUTH LOUD OFFICIAL SITE | ビッグマウス・ラウドとは
1954年(猪木の引退試合と同じ日の)4月4日生まれ、山口県出身。新日本プロレス入社後、第一次UWFへ入社。1年半の活動を経て、1986年6月1日に新日本プロレスへUターン。神がかり的な営業の天才とも言われた営業部所属時を経て、執行役員(渉外・宣伝)へ。新日本プロレスのマッチメークを担当してきた。
K-1や総合格闘技でも勝ち抜く強い新日本をめざすスピリットに対しては、K-1プロデユーサーの谷川氏も“投資”を判断するほど。K-1日本人最強・武蔵を2004年5月3日新日本プロレス東京ドーム大会に投入した。
2003年12月31日に中邑真輔vsアレクセイ・イグナショフ試合後には、「ブレイクのタイミングが早すぎる。あまりに立ち技有利のレフェリングでしょ!」と猛烈抗議。これにより中邑TKO負け裁定を覆し、「無効試合、再戦」へと導いた。
2004年5月22日・さいたまスーパーアリーナで開催された「K-1 MMA Championship ROMANEX」では、中邑がリベンジ。中邑だけではない新日勢・猪木軍の全勝劇に対して控え室で選手・セコンド勢とともに満面の笑顔で万歳三唱。
2004年8月20日収録テレビ朝日『TVプロレス~激闘!プロレス討論会』にパネラー出演するなど、対外的にも新日本プロレスの顔として活躍する。
その後、新日本プロレスを退社。
2004年12月6日個人事務所"ビッグマウス"設立を記者会見で発表。同時にK-1と武藤敬司(全日本プロレス)の間で行わた"WRESTLE-1"の名称を使いプロレス興行をおこなうことを発表。
2005年1月22日上井文彦、前田日明が記者会見。「本当のストロング・スタイルを作りたい。総合でも通用するプロレスラーを作りたい」という上井文彦の言葉に前田日明氏が協力を約束。
4月16日リキプロのリングを借りて前田日明、上井文彦が挨拶。村上和成が長州力を襲撃。
8月8日ビッグマウス旗揚げが決定する。
9月11日後楽園ホールでビッグマウスラウド旗揚げ。村上和成が柴田勝頼をPKで破る。前田日明が船木誠勝をつれてビッグマウスラウドに参加。船木誠勝は全面協力を約束し復帰も示唆した。
2006年1月6日前田日明氏が東京ドーム大会の結果を踏まえた上でビッグマウスラウドに対して批判。スーパーバイザーを務めていたが辞職を一発表。
2月26日ビッグマウスラウド第3弾、徳島大会開催。前田氏がリングに登場し、ファンの前でビッグマウスとの決別を表明。
“前田氏との決別”“3・19棚橋弘至戦のドタキャン(柴田勝頼を参戦させない)”で信頼が揺れるビッグマウス。団体を再び軌道に乗せるべく上井文彦氏は奮闘している。
■□T.SAKAi
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