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2012.02.28

前田日明インタビュー(デイリースポーツ&週刊プレイボーイ)イッキ読み~ドラゴン計画を完全否定

 本題の前に。今週の写真週刊誌「FLASH」(3月13日号)にも4ページ分のインタビュー記事あり。興味のある方はチェックを。
・ FLASH|最新号|雑誌|光文社
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[デビュー35周年濃密インタビュー]
デビュー前の猪木を金蹴り/武藤との旅館破壊事件 ほか
前田日明 リング場外「ケンカの真相」喋る

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 デビュー35周年DVD発売、そしてリングス復興が重なり、前田日明のメディア露出が目覚ましい。かつ、一つひとつが刺激的で楽しませてくれている。

 では、単なる引用なのだが、最近のインタビュー記事(デイリースポーツ&週刊プレイボーイ)でWEB公開されているものを紹介しておきます。どうぞ。[記事全文

                * * *

 

デイリースポーツ「いま、この人」イッキ読み!

 20日発売分デイリースポーツ。「いま、この人。~デイリースポーツが聞く」に前田日明が登場。インタビューに答えている。28日にWEB公開されました。


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・ デイリースポーツonline/新格闘王&リングス代表・前田日明 1/いま、この人。
・ デイリースポーツonline/新格闘王&リングス代表・前田日明 2/いま、この人。
・ デイリースポーツonline/新格闘王&リングス代表・前田日明 3/いま、この人。

 リングス代表の前田日明氏(53)が3月9日、後楽園ホールで10年ぶりにリングスを再開する。「世界最強の男はリングスが決める」を旗印にエメリヤーエンコ・ヒョードルやアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラらを世に出した総合格闘技団体だ。また、15日には新日本プロレス時代を集大成した「前田日明デビュー35周年記念DVD‐BOX」(ポニーキャニオン)が発売され、若き日の勇姿が942分にわたってよみがえった。新格闘王が熱く語った、格闘技の過去と未来をお届けする。(聞き手=藤澤浩之)

  ◇  ◇

 ‐新日本プロレス時代(78~84年、85~86年)の映像が5枚組の「前田日明デビュー35周年記念DVD‐BOX」(ポニーキャニオン、発売中)にまとまりました。

 「あんまり試合の記憶ってないですね。これ(資料)を見て『ああ、こんな試合あったっけ』っていうのがけっこうあったりする。自分の場合、リング上がどうのこうのというよりリング外のことでかき回されてて、一緒にやった連中を食わせていくためにどうしていくかで頭がいっぱいやったんで」

 ‐見る側からすれば、前田さんには記憶に残る試合がとても多いんですが…。

 「ユニバーサルプロレス(第1次UWF)が解散して新日本に業務提携で戻ってきて、そのころの試合はけっこう記憶にあるのが多いですね」

 ◆第1次UWFは85年9月で活動を停止。UWF勢は同年12月に新日本参戦を表明した。

 ‐その中でも特に印象に残っている試合は。

 「藤波さんとやった試合(86年6月12日、大阪城ホール。プロレス大賞年間最高試合に選出された)もアレですし。今考えると藤波さん、やっぱりね、打たれ強かったですね。後々リングスやって、パチーンと当たってストーンと落ちるヤツいっぱいいましたからね。あの時藤波さんとか、ハイなんか何発当たったかわからないですよ。(当時の新日本の選手は)みんな頑丈やったですよ。いろんな意味でね。当時のオレたちが今どこらへん(の団体に)に行ってやったって試合にならないんじゃないですか。それくらいの頑丈さがありましたよね」

 ‐第1次UWFから新日本に戻ってきて、もともと同門だった新日本の選手も対応できないくらい前田さんたちのスタイルは変わっていました。やりにくさや難しさはありましたか。

 「自分が入ったころに、当時(アントニオ)猪木さんの付き人をしていた佐山サトル(初代タイガーマスク)さんの口からね、『猪木さんは本当はね、プロレスっていうよりもっと進化させて、今でいう総合格闘技みたいにしたいんだよ』っていうのを聞いたんですよね、よく。(当時)自分は藤原さんと2人でえっちらおっちらグラウンドの練習を始めたんですけど、リング上でやってると場所取るもんですから邪魔者扱いでね。『リング下りて別のところでやれ』とか言われて舞台の上でやったんですけど。あまりにもそういうのが続いたんで一計を案じて、後から入って来るヤツみんな引き入れたんですよね。多数決で自分らが占領できるようにやって、結局そのメンバーがUWFのメンバーになったんですけどね…あれ?質問なんでしたっけ」

 ‐スタイルの話です。

 「『自分らの方が正しいんだ』って、その辺は若さでゴリ押ししてましたね。無理やり」

 ‐新日本時代は選手としてはコンディションが良かった時期ですね。

 「ケガさせてばかりで自分のケガがなかったですね。(選手として)いつが良かったかはあまり考えたことはないんですけど。何とか新日本に吸収されないように、独立独歩でやっていくにはどうすればいいか。社員の給料とか道場の運営とか新弟子の給料とか、いろんな予算を取っていかないといけないし」

 ‐選手をやりながらUWFを経営するのは大変だったと…。

 「それ以前の問題で、新日本側も吸収したくてしょうがないんですよね。いろんなプレッシャーかけてきて『結局、突っ張ってるのは前田だけだろうから、コイツを何とかしたら何とかなるじゃないか』って。あんまり自分が言うこと聞かないもんで、新日本の方も考えあぐねて『取締役の1人にしてやる。株もあげるからUWF止めてこないか』って。『何言ってんだ』って感じで断りましたけど」

 ‐以前、新日本に残留して団体の主導権を握っていたら、リングスのように総合格闘技へと移行させようと考えていたというお話をうかがったことがあります。

 「今から考えると、年代的にできる人とできない人がいるんですよ。若い人間はできるんだけど、年いってる人はできない。後にリングスでいろいろ経験しましたけど、それに向いた選手を一から作らなきゃならないんですよね。そういう問題もあって。でもリングスやって思いましたけど『あのころの新日本ってもうかってたんだったな』って。『その金をちょっと考えて使えば、後々のK‐1とかPRIDEとか全部なかったのにな』っていう思いは今でもありますね」

 ‐新日本での試合は第1次UWFに行く前(84年まで)と業務提携後(85、86年)に分けられますが、それぞれの時期を総括すると。

 「ユニバーサルの前は何とかプロレスラーをやんなきゃいけないなと思って試行錯誤して壁にぶち当たって。(カール・)ゴッチさんのところに行ってほかのプロレスラーができないことをいろいろ身につけてきたんですけど、いざプロレスの試合となると、受けられないというんで投げ技にしても蹴り技にしても拒否する人が多かったんですよ。だから手足そがれた状態で試合してなきゃいけなかったんで、どうしたらいいんかなっていうんで、けっこう煮詰まってましたね」

 ‐業務提携後は。

 「戻ってきてからは(ユニバーサルの経験から)後楽園ホールで自分たちがやったことは認められるんだって実感はあったんで。何とかこれを続けていきたい。最初の業務提携の話し合いの部分で、何か別の一分野をもうけてやってくれないかなという話をしたんですが、抵抗がありましてできなくて、できないどころか1人1人切り崩しちゃおうってのが見えたのでそれに対抗して、リング上で事件を起こしてご破算にして、しばらくやってまたちょっとやばそうになったら事件起こして…、って、そういう感じですよね」

 ‐藤波さん以外でいい試合ができた選手は。

 「アンドレ(・ザ・ジャイアント)は津の大会でもめた試合(86年4月29日)もありましたけど、その前にやった試合(83年5月13日)では何でも受けてくれたんですよ。当時スープレックスに自信あったんでアンドレにジャーマンやったらみんなひっくり返るやろうなってねらったんですけど、パッとクラッチやったら手が回らなかったんですね。彼はいろんな意味で強い選手でしたね。当時のプロレス界の稼ぎ頭で。どこのスポーツの世界でも成功したんじゃないですか」

 ◆津の試合では、アンドレからプロレスの枠を越えたファイトを不可解にも仕掛けられた。

 「津の試合はアンドレ個人がどうのこうのじゃなくて、誰かが『けしからんヤツだから恥かかせてくれ』みたいな感じで言われてやったと思うんですよね。試合中に『これはオレのビジネスじゃないから、オレは関係ない』って言ってましたからね」

 ‐当時の前田さんはディック・マードックを高く評価していました。

 「ディック・マードックは良かったですね。やれるんだったら何でも来いよ、みたいな感じでね。自分がやった中ではやっぱりディック・マードックとアントニオ猪木の2人が、プロレスの天才でしたね。何やってもプロレスにしちゃうみたいなね」

 ‐猪木さんは。

 「過激なプロレスっていう村松友視さんの本(『私、プロレスの味方です』3部作)が出たとき、猪木さんのことを“過激なプロレス”って書いていて。試合してみたら、当時の自分は『何だ全然違うじゃないか』っつって頭に来てたんですけど、今から考えると猪木さんもそういった意味では何でもかんでもプロレスにしちゃうっていう、なんていうのかな、職人ですよね」

 ‐先ほど、猪木さんにもプロレスを進化させる考えがあったと。

 「ちらっとそういう話を聞いたことはありますよね。猪木さんもプロレスだけやってればそういう方に行ったと思うんですけど。マジメにプロレスだけ集中してやってれば今ごろ新日本プロレスは高層の自社ビルが1つ2つ建ってて、総合格闘技からK‐1からプロレスからみんなやってるでしょ。それは亡くなった山本小鉄さんがよく言ってましたね。当時は新日本でやってるメンバーっていっても全日本に比べたらちっちゃい人ばっかりだし、どうかなと思ってましたけど、後で振り返ってみればすごいメンバーでしたね」

 ‐新日本を辞めた前田さんも佐山さんも船木(誠勝)さんも団体を起こして、格闘技史に大きな位置を占めている。新日本のどこにその理由があったんでしょうか。

 「当時、山本小鉄さんが自分らのコーチで、新日本プロレスの道場の雰囲気を作ったのは山本さんですよね。自分は第2次世界大戦の戦記が好きでよく読むんですけど、その中に出てくる、努力を尊ぶ日本人中の日本人(のような人)が新日本プロレスにいて、なおかつ若手とか練習生の面倒を見るコーチでいたのはすごく大きいと思います。山本さんだけはUWFが帰ってきてリング上で大暴れして相手をしょっちゅうケガさせた時も何も言わなかったですね。ケガさせる方が悪いんだ、ケガさせられる方が間抜けなんだと」

 「後々いろんなことを人から聞いて分かったことなんですけど、山本さんたちがアメリカで転戦したところは、猪木さんもそうなんですけどテネシー州なんですね。第2次世界大戦で戦死した人が一番多いところなんですよ。日本人というと試合どころかリングに上り下りする最中に刺されちゃったとか、日本人をバカにしきってる相手のレスラーがプロレスせずにいきなりパンチを打ったりとか危ない投げ方されるとかがあるところなんで、そういうのを相手にしながらちゃんともめたときはやっつけるし、相手が変なふうにやってきてもさせないようにするということを経験してる人たちなんで、それが後々の新日本プロレスの雰囲気になったと思いますね」

 ‐前田さんにとって新日本時代はどんな時期だったと思いますか。

 「20代の時にいろいろ考えたりとか思ったりとかしたことは人生の骨格になるって聞いたことがありますけど、まさにその通りで、あの時に考えたことをやっていこうって。第2次世界大戦の撃墜王の坂井三郎さんとはある対談で知り合って、死ぬまでお付き合いさせてもらったんですけど。『いま年を取って考えてみても間違ったことは何もしていないと。若いながらわれながらよくやったと思う』ってよく言ってましたね。自分も振り返ってみて、あのころやったことで間違ったことはこれっぽっちもなかったですね」

 ◆3月9日には後楽園ホールで、前田氏が第2次UWFを経て起こした総合格闘技団体「リングス」が10年ぶりに活動を再開する。

 ‐なぜ、この時期に再開することになったのでしょうか。

 「順番にやってるんですよね。まずアマチュアをちゃんと育てて、有望な選手が出てきたらランクアップさせてチャンピオンにさせるというんでやってて。もうアウトサイダーの方は足かけ4年くらいになりますんで、そういう時期なんですよね」

 ◆前田氏は08年に総合格闘技大会「アウトサイダー」を旗揚げし、アマを育成してきた。

 「いつかは再復活させないといけないな、と思ってましたよ。一時業界にいる人間に嫌気がさすとこあって、ちょっと引いたんですよね。3年くらい遊んでたんですけど。(格闘技ブームが終えんを迎えて)夢を抱えてこの世界に飛び込んで試合してギャラをもらえない選手とか、もっと上の連中がしっかりやって責任を果たせる人間を育てないと、このまま格闘技全体がたぶんフェードアウトしちゃう。それはちょっと困るんで、何とか頑張ろうかなと思うんですけどね」

 ◆前田氏の改革案は続く。

 「能力のある選手にはそれなりに相当のギャラをあげなきゃいけないしっていうのがあるんですけど、この選手にこんな金出す必要はないんじゃないかっていう選手にまで出してるんですよね。そういうのをはっきりして。あと格闘技の大好きでやってる選手が、アマチュア根性抜けないヤツがいっぱいいるんですよ。勝っても負けてもいい試合をして、それに魅力を感じて切符を買ってもらうということはどういうことなのか。あまりにも勝つことだけこだわってつまんない試合して、守りに入ったね、見ても何やってんだみたいな試合やってそれが当たり前やって言う連中がけっこういるんで、それもきつい発言をしてただしていきたいですね」

 ◆この後も現在、主流となっている総合格闘技のルールに「いかがなものか」と懸念を示した。

 「日本で総合を立ち上げたメンバーの1人として責任があるんですよね。業界全体がちゃんとした方がいい。見本を見せたいですね」

 「サドマゾショーをやるんじゃないんですから、スポーツをやるんですから、そういう(危険なルールは)のはダメにしなきゃいけないんですよね」

 ‐リングスの長期的な展望は。

 「少しずつ大きな会場でやっていくのと、ヘビー級も含めて新たな選手の発掘もどんどんやっていくと。一時期ヒョードルがすごいっつったら、みんなヒョードルヒョードルって言ってましたけど、例えばロシアなんかで言えば、ヒョードルくらいの素質の人ってけっこういっぱいいるんですよね。自分はリングスの時代に11年間、ロシアに行ってきたりしましたけど、とんでもないヤツいましたね」

 ‐前田さんが選手を発掘する慧眼(けいがん)ぶりはよく知られていますが、善しあしはどこでわかるんでしょうか。

 「すごいときはもう立ち姿で分かるときありますね。パッと見てコイツできそうだなと。勘ですよね。実際には動いてるのも見てるのももちろんありますけど、オーラっていうんじゃないだけど、独特の雰囲気がありましたよね」

 ‐リングスで特にそれを感じた選手は。

 「ピーター・アーツなんかもそうでしたし。アメリカで発掘しに行って見てた(アントニオ・ホドリゴ・)ノゲイラもそうですし。ヒョードルもそうですし。アリスター(・オーフレイム)なんかもこのまま出れば強いヤツになるんだろうなという雰囲気はありましたよね。ダン・ヘンダーソンもありましたし」

 ‐現在のトップは、まずリングスで来日した人が多いですね。

 「当時『世界最強の男はリングスが決める』って(キャッチコピーで)言ったら何言うってんだって言われましたけど、結局そうなりましたね」

 ‐今、アウトサイダーやZST、リングスに上がる選手でコイツはいいっていう選手は。

 「アウトサイダーは言えないんですよ。言うと急に練習しなくなって、勘違いして『オレは横浜文体でしか試合しない』とか言い出すんでね。かわいいんですけどうかつなこと言えないなって。素質があったのに、オレが余計なこと言ったために練習しなくなって、コイツもったいないことしたなってヤツいるんでね。でもいますよ、何人かね。ZSTでは鈴木でしたっけ、信達はいいですよね。最初はどうなんかと思いましたけど、見てるうちにけっこう風格が出てきた」

 ◆鈴木信達は空手出身で、デビューから9勝2分と無敗街道をばく進。行政書士でもある。

 ‐ちなみに外部で今いいんじゃないかっていう選手、団体は。

 「ノアのKENTAくんでしたっけ。彼はすごく頑張ってやってましたよね。いまヒザ壊して…。彼は良かったですね。彼が中心になっていろいろとまあやって」

 ‐最後に、リングスを再開するにあたっての所信表明をお願いします。

 「世界最強の男が育つ場所とみんなが認めるように、団体をもっていきたいと思います」

 ‐そういえば、去年行われた藤波さんとのトークショーで、藤波さんが現役に戻って欲しいと言っていました。

 「ファンに引退試合だよって言って切符買ってもらって試合しましたからね。ちょっとできないですね。自分は十八くらいの時からずっと鹿島神宮に行ってるんですけど、ちゃんと自分で祝詞挙げて、口に出していろんな約束事してやってるんで、破ったら罰当たりになっちゃうんでできませんね。ヘッヘッ」

  ◇  ◇

 前田日明(まえだ・あきら)1959年1月24日生まれ、大阪市出身。77年、新日本プロレスに入門し山本小鉄戦でデビュー。84年、第1次UWF旗揚げ。88年、第2次UWF旗揚げ。89年、プロレス大賞MVP。91年、リングス旗揚げ。99年、アレクサンダー・カレリン戦で引退。02年、リングスが国内での活動を停止。05年、ビッグマウスラウドとHERO’Sのスーパーバイザー就任。08年、アウトサイダー旗揚げ。身長192センチ、体重115キロ。得意技はキャプチュード、ニールキック。


週刊プレイボーイをイッキ読み!

 この勢いで、週刊プレイボーイWEB公開分もチェックしておきましょう。

・ デビュー35周年“格闘王”前田日明「初めて猪木さんとスパーリングしたとき、金的と目突きをやった」 - インタビュー - 週プレNEWS

新日本プロレス、UWF、リングスと渡り歩き、1999年の引退後もいまだカリスマであり続ける前田日明。デビュー35周年を迎えた“格闘王”が、古巣・新日本時代の仰天エピソードを明かす。

  *  *  *

■「モハメド・アリの弟子にしてやる」って騙されたんだ

―35年前の入門当初、一番ツラかったのはどんなことですか?

前田 練習がキツいのは覚悟の上だからあきらめていたけれど、体重を増やすのに苦労したね。山盛りのドンブリ飯を5杯から10杯きっかり食わされるから。それを山本小鉄さんがビール飲みながら見て「今何杯だ?」とか言ってくるんだよ(笑)。もうひと口も入らないところを「食え食え」ってね。戻しても怒られるし、あれはたまらなかった。もう胃がフォアグラ状態だったね(笑)。

―若手の頃、酒に酔った前田さんがタイツ一丁姿で後輩を追いかけ回したという噂があるんですけど、事実ですか?

前田 あれはジャージを着てたよ。酒をガンガン飲まされてね。春先でね、(レフェリーの)ミスター高橋さんが「これから(道場近くの)多摩川で花見をやるから、おまえらのなかで誰が一番飲めるかチェックする」って。そしたら、途中で訳がわからなくなって。包丁を投げたりしてね(笑)。

―ええーっ!

前田 高橋さんもマズいと思ったのか、包丁を取り上げようとしたら、逆に自分の手を少し切っちゃって。気がついたら猿ぐつわをされて縛られて、合宿所の空き部屋の一室にいたね(笑)。

―さすがですね(苦笑)。ところで、前田さんはなぜ新日本プロレスに入門したんですか?

前田 いや、俺は空手やってたんだけどプロレスに入るつもりは全然なかったんだよ。新間(寿・営業本部長)さんに会って誘われたときも「とんでもない」って断ったんだ。でも「モハメド・アリの弟子にしてやる」って言われて(笑)。それで「その前にしばらく新日本の道場で体づくりをしていなさい。ちょっと試合するだけでいいから」って。その「ちょっと」が35年になってしまったという(笑)。

―長い「ちょっと」でしたね(笑)。そういえば、猪木さんの引退試合のとき、来日していたアリからサインをもらったとか?

前田 引退試合で猪木さんに花束を渡してくれって頼まれたんだけど、俺は「アリのサインくらいもらえなかったら花束なんて渡せない。絶対にいやだ!」って言ったんだよね。で、アリの控室に行って「実は僕はあなたの弟子にしてやるって騙されてプロレスラーにさせられたんです」って言ったら、アリが「ホントか? おまえ、ホントは俺に挑戦しに来たんだろ? ちょっと構えてみろ」って。構えたら「今、見えたか?」って言うから「見えませんでした」って答えたら「そうだろ。今、おまえにパンチを10発入れたんだ」って(笑)。だから「さすがです。サインください」って。

―で、サインをもらったと。

前田 ピョンピョン跳んで帰ったもん。一年間くらい自慢してたよね(笑)。

―新日本プロレス時代でご自身が考えるベストバウトは?

前田 いやぁ、あまり覚えてないんだよね。

―1983年に海外武者修行から凱旋されたときのポール・オンドーフ戦は衝撃的でした。

前田 あれはフロリダの(カール・)ゴッチさんのところに行って帰ってきたときだったんだけど、当時のレスラーにない技術をいっぱい身につけてきたんだよね。相手にとっては「そんな技は受けられないよ」っていう技ばっかりで。だから試合前にオンドーフがいやがったんだよね。前に投げるスープレックスとか。でも、それをゴッチさんが聞きつけて「あんなフットボーラーなんか1分以内にやっつけろ」って言うし、新間さんのほうは「テレビの試合だから10分以上はやれ」って言うし。困ったなぁ、どっちの言うことを聞けばいいんだろうって(苦笑)。

―84年に新日本を離脱し新団体UWFに移籍しましたが、UWFはやがて崩壊。そして、86年に業務提携という形で、新日本のリングに復帰しましたよね。

前田 あの頃は自分のことよりもUWFをどうするかってことばかり考えててね。新日本はUWFをバラバラにして吸収したかったんだよね。あるとき、「話があるから来い」って呼ばれて行ったら「株を少し分けてやるから、UWFを辞めて新日本に入って取締役になって」って。だから「それはできません」と。でも、今考えれば役員になってればよかったかなぁって(笑)。そしたら、うまく新日本のなかで立ち回って、都内で一軒家が建ってるよ(笑)。

―そしたら、新日本も今とは違うものになっていたかもしれないですね。

前田 でも俺、若いやつに嫌われてるかもしれないね。呪いの藁(わら)人形に五寸釘を打たれてたりね(笑)。

■猪木さんは大したことないって思ってた

―83年のIWGPリーグ戦で、香川県の高松で猪木さんとシングルでやりましたけど、あの試合の記憶は?

前田 あるよ。当時24歳の俺からすると、「過激なプロレス」とか言ってる割に猪木さんは大したことないなぁと思ってた。でも俺も50歳を過ぎた今になって思うと、猪木さんはやっぱりプロレスの天才だよね。プロレスで敵(かな)わないなと思ったのは、アントニオ猪木とディック・マードック。あのふたりは何をやってもプロレスにしちゃう。

―でも、UWFから戻ってきたときは猪木さんより自分のほうが強いと思っていたわけですよね?

前田 いや、強いっていうよりも、もし俺が負けることがあったとしても相手を絶対に病院送りにする。絶対そうしてる自信はあった。あの頃、俺、ホントにやってやろうと思ってたから。リング上でひっくり返してやろうって。

―当時、もし実現してたらどうなったか。以前、山本小鉄さんがこんなことを言っているんです。「技術も体力も全盛期だった前田が猪木さんに関節技を極(き)める。猪木さんにもメンツがあるからギブアップはしない代わり、前田の耳元で『前田、これは仕事じゃないか』と囁(ささや)く。それを聞いて人のいい前田は締めている腕をゆるめる。と、その瞬間、猪木さんは前田の目玉をえぐるだろう」って。

前田 そういうこともあり得たかなって感じだね。だけど、目玉をえぐるとかそういうのはね……卑怯な話でね。じゃ、目玉えぐりもアリの試合だって最初から言ってくれたら、俺も目玉をえぐるよ。

―そういえば、入門して初めて猪木さんとスパーリングしたときがそんな感じだったとか?

前田 そう。「何をやってもいいんですか?」って聞いたら猪木さんが「いいよ」って言うから、金的を蹴って目突きをやったんだよ。だって俺が読んでた『空手バカ一代』には「プロレスラーとやるときは金的と目突きしかない」って書いてあったから。まだ空手家気分だったからね。だけど、一回断りを入れておかなきゃいけないと思ったから「何をやってもいいんですか?」って聞いたんだよ。

―断りを入れるところが前田さんらしいですね(笑)。

前田 で、ホントにやったら猪木さんぶっ倒れてね。そしたら木村健吾さんとかみんなが入ってきてボコボコにされたよ。「何をやってもいい」って言ったからやったのに、なんでこんな目に遭うんだって思ったよ(笑)。

(取材・文/“Show”大谷泰顕、撮影/本田雄士)

               * * *

 前田の生き様に食らいつきながら、前田と一緒に猪木超えを果たそうとしてきた。そんなプロレスファン人生を送ってきたた人も多いでしょう。疎遠になっている人も多いと思いますが、あの頃の熱い思いが甦って来るインタビュー集。

 改めてKENTAを認める発言。このあたり誤解されることもあるが、前田はプロレスを否定しているわけではない。きっちりコンディションをつくってプロとしての完成度を見せる姿勢は買う。

 さて、藤波が前田と接点をつくっていく中で、前田を復帰させるという“ドラゴン計画”がありました。
・ 2011.09.17 藤波辰爾vs前田日明トークショー30分1本勝負~ほぼ全文【週刊 前田日明】: カクトウログ
・ 前田日明のリング復帰について、藤波辰爾「間違いなく上がる。ドラゴン計画に完全に入ってます」: カクトウログ

 今回のインタビューで「自分は十八くらいの時からずっと鹿島神宮に行ってるんですけど、ちゃんと自分で祝詞挙げて、口に出していろんな約束事してやってるんで、破ったら罰当たりになっちゃうんでできませんね」と完全否定。

 言うまでもなく、格闘技復興に邁進中なんである。


 まだの方は、こちらもよろしければ。
・ 前田日明、ボブ・マーリーのラストライブを見ていた~2・5新宿トークショーまとめ【週刊 前田日明】: カクトウログ

↓週刊前田日明バックナンバー、カクトウログ前田日明記事、関連サイトリンクはこちらで
・ 週刊 前田日明 ~unofficial~


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