藤波辰爾インタビュー(デイリースポーツ)イッキ読み~40年間ベストバウトは88年8月8日の猪木戦
藤波辰爾といえば、20日の40周年興行での奇跡の顔合わせの余韻がまだまだ残っているが、、、
・ 藤波辰爾デビュー40周年4・20後楽園ホール大会速報観戦記まとめ~エンディングで起きた奇跡: カクトウログ
デイリースポーツがインタビュー。
・ デイリースポーツonline/デビュー40周年「炎の飛龍」・藤波辰爾 1/いま、この人。
・ デイリースポーツonline/デビュー40周年「炎の飛龍」・藤波辰爾 2/いま、この人。
・ デイリースポーツonline/デビュー40周年「炎の飛龍」・藤波辰爾 3/いま、この人。
40年間のベストバウトを聞かれ、「やっぱり猪木さんとの横浜(88年8月8日・横浜文化体育館。猪木が藤波のIWGPヘビー級王座に挑戦)だろうね」と答えている。
ボクのプロレスファン歴でみても、ベストバウトはその猪木VS藤波フルタイム戦です。テレビ観戦ではあったが、あれはまるで“プロレスの最終回”じゃないかと思うくらいに集大成としての感動が凝縮されていた。
ボクにとっては、猪木と藤波は特別な存在なわけで、あまりオールドネームが揃うことを売りにするのは好きじゃないけれども、例外として思わず先日の後楽園ホールに足を運んでしまったのだった。
では、デイリースポーツのインタビューをどうぞ!
* * *
炎の飛龍・藤波辰爾(58)のデビュー40周年シリーズがドラディション「藤波辰爾デビュー40周年・ファイナル!」(20日・後楽園ホール)でフィナーレを迎え、5月16日にはドラゴンブームを巻き起こしたジュニアヘビー級時代の集大成「藤波辰爾デビュー40周年記念DVD‐BOX」(ポニーキャニオン)が発売される。1つの区切りを迎えたドラゴンがプロレス哲学、師匠のアントニオ猪木や宿命のライバルである長州力との関係など、40年に及ぶプロレス人生を語った。(聞き手=藤澤浩之)
◇ ◇
‐40周年シリーズが20日でフィナーレです。
「自分自身にとってはまだ途中なんだよね。40年たったっていうのが、あんまり深いアレはないんだよね」
‐40年間で一番大きなできごとは。
「すべてですね。不可能に近いところから入門してますからね。ましてやチャンピオンになることもそうだったし、猪木さんのそばに行けることも大きなできごとだったね。目の前に夢みたいな人がいるわけだから」
‐40年間のベストバウトはどの試合ですか。
「やっぱり猪木さんとの横浜(88年8月8日・横浜文化体育館。猪木が藤波のIWGPヘビー級王座に挑戦)だろうね。60分。というのは、これはもう勝とうが負けようが、たまたま時間切れの引き分けだったけど、もう思い残すことはない、すべてを猪木さんにぶっつけられたし、もう悔いはない試合だったしね。瞬間瞬間の熱い試合はジュニアの時も長州の時もありましたよ。ただ総合的に全部引っくるめて、横浜文化体育館の猪木さんとの試合だろうね」
‐今回のDVD‐BOXには、WWWF(現WWE)ジュニアヘビー級王者としてスターダムにのし上がった時代(78~81年)がまとめられています。先行して猪木さんや坂口征二さんがいる中でどんなレスラー像をつくろうとしていましたか。
「目標は猪木さん。ジュニアヘビー級であっても気持ちの中ではやっぱりレスラーってのはデカい、それと強さっていうのがあったから」
‐ヘビー級の肉体ができあがっていく過程。
「そう。体をつくろうと思ってどんどん食べたんだけど体質的にデカくなる方じゃなかったからね。それがジュニアヘビー級でやってきた何年間なんだよね。常に頭の中に、早く猪木さんの体に近づけたいっていうのはあったよね」
‐78年1月23日、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでWWWFのベルトを巻いて3月4日に凱旋帰国。空前のドラゴンブームが巻き起こりました。
「猪木さん一本でずうっと来た新日本プロレス、(ジャイアント)馬場さんと猪木さんの日本のプロレス界がそういう時だったんだろうね。プロレスの迫力とは違う何かね。時代の流れにうまく乗っかったんだろうね。それと今との大きな違いはテレビでしょうね。金曜8時の生放送っていうレギュラー、これがスターを作る第一要素だろうね。毎週ゴールデンタイムに今までと違ったタイプのレスラーとしてポーンと出るわけでしょ。新鮮だろうね」
‐当時の大きな興行ではまず藤波さんのタイトルマッチがあり、メーンで猪木さんの試合がありました。どんな意識で臨んでいましたか。
「ものすごいプレッシャーですよ。猪木さんはテレビ側の人間じゃないけどいろんな見方をする人でね。1時間‐正味1時間ないんだけど‐のフタ開けにとにかくお客さん(視聴者)をつかまないとっていう意識をものすごく持っていたね。だからお客さんにインパクトあるものをフタ開けに見せるかとか、急きょ取り組みを変えたりとかしてましたよ。だから試合の中で時間を計ってどうこうっちゅうのはないけど、どっかで時間っちゅうのが頭の中に入ってたね。だから一番気を使ったのは猪木さんとタッグを組んだ時だね」
‐具体的には。
「生放送は時間が限られているわけだから、戦いの中でそういう意識を持っていなければ。だからすごく疲れた、猪木さんとのタッグの時は。それとテレビ中継の時はものすごく気を使うね。ただ漠然と試合をするんじゃなくて、そこまで計算して試合をしてたからね。組んでてもどこらへんで猪木さんに渡すとか」
‐猪木さんは組みやすい選手でしたか。
「やりやすくて一番難しいんだよね。意識が違ったね」
‐競争意識は。
「自分も凱旋帰国してジュニアが少しずつ認知されてファンがつくわけでしょ?自分たちなりにお客さんを引っ張るっていうのか、自分の良さ、また違うすごさを見せる部分では競争意識はありますよね。あと、ヘビー級には負けないじゃないけど、僕はジュニアヘビー級でも決してアクロバチックなことしないからね。オーソドックスなレスリングの基本みたいなもののなかに1つ2つ速い動きを見せるだけでね。それがヘビー級と違った速さに見られたんだけど、決してジュニアって意識した試合じゃないんだよね。ただ時折ドラゴンロケットみたいに今までやったことがないような技を出してみたりとか。同じ投げるのにしてもヘビー級とは違う投げ方をしてみるとかね。受け身にしても普通の受けじゃなくて、瞬発力のある受けとか。そういうのを1つ2つ入れるだけで、動きがものすごく速く見えてしまう。今の選手だったらカメラで追えないような動きをするじゃない?僕の場合はそこまではしなかったんでね。今のジュニアヘビー級の動きはタイガーマスク(初代)からだろうな」
‐ジュニア時代のベストバウトは。
「チャボ・ゲレロ(78年10月20日・寝屋川市民体育館)もそうだしね、トニー・ロコ(80年9月11日・大阪府立体育会館)なんか面白かったんですよ。僕の場合はヘビー級のプロレスからちょっと軽量級の、普通の人の体つきに近かったわけだよね。それがファンに受け入れられたっていうのか。だからどの会場に行っても一体感があったよね。やりがいがあった。やることなすことお客さんの手のひらに乗っかってるみたいなね。猪木さんは逆のこと言うんだよね。お客さんを手のひらに乗っけろって」
‐藤波さんの試合を見ていると、ほかのレスラーはまったくしないような動きがあるんですが。
「僕の場合、最初にドイツ、ヨーロッパに行って、それからアメリカに行ってメキシコに行って、プロレス界のスタイルの違うところにだいたい全部回ったんでね。それはもうカール・ゴッチさんが常に言われていた、プロレスのリングに上がる以上は、国によってスタイルが違うんだよね。そこをずっと回っとけば、例えば相手によって対処の仕方っちゅうのか、できるよっていう」
‐藤波さんにはジュニアから転向して大きな選手と戦っていた印象があったんですが、実際には現在のプロレスではかなり大柄な方ですよね。
「こういう体で大きい方に入るっていうのもちょっとどうかって思うね。自分たちが入った昭和45年がレスラーのいっちばん大きい時代だったからね、馬場さんを筆頭に。若手でも180そこそこあって、110キロ120キロちゅうのが普通だったからね。僕なんか『この中でやっていけるのかな』って、ものすごい重圧感あったけどね。今、僕が大きいっていうのは、選手がものすごく小柄になっちゃったのかな。レスラーのアレ(体格)をもう1回大きくしなきゃいけないだろうね。迫力っていう部分ではものすごく欠けてるよね。プロレスって見せるスポーツでしょ?ファンの前でやるっていうのはある程度、体が資本だろうね。昔は175センチ以上の80キロ以上かな、入門の規定があってね。そこからみんな一にのさんで体つくって、そういうのがもう基本、スタートだったんでね。そういうのがどっかでなくなっちゃったよね。それは自分がジュニアヘビー級っていうのでぽんとこう言われたもんだから、選手が小柄になったのかもしらんけどね」
‐ヘビー級に転向後、長州さんとの抗争が持ち上がりました。いわゆるかませ犬発言(82年10月8日・後楽園ホール)当時の心境は。
「穏やかじゃなかった。どこで彼(長州)がどういう気持ちになったかわかんない。まわりがどういう形で長州にその気にさせたのかわかんないけど、自分自身からすればまったく予想もしないところにそういうかませ犬発言だからね。そこに自分の気持ちはないんでね。ヘビー級であったり目標である猪木さんのところにどれだけ早く行けるかとかね。そういう時に伏兵が出てくるわけだからね。でも後々、それが自分のプロレス人生の大きなドラマになってきたけどね。長州との一戦がなかったら、自分のプロレス人生はものすごく薄っぺらいものだったかもしれないね。当時のプロレス界は発言も行動もリング上もすべてが本音で戦ってたよね。だからちょっとしたことで波乱も起きてたけどね。波乱ずくめの新日本プロレスだったけど、それだけファンからすると目が離せないみたいなね。なんだこれ、マジなのか、マジじゃないかってね。そりゃそうでしょうね。思ってる通りやってるんだから。みんなそれぞれマジで。そういうのが起きちゃうわけだから」
‐何が起きるかわからないという。
「あれが新日本プロレスっていうか、プロレス界にとっていろんな人の目を覚ました部分もあるだろうね。これもありっていうのか。日本社会、特に体育会系は年功序列じゃないけど先輩後輩はあるわけでしょ。いい部分でもあるんだけど、どっかで殻を破んないと新しい物は生まれないというか、自分自身も進歩しないというのか、そういう目を覚ました部分はあるだろうね、長州の一言っていうのはね」
‐藤波‐長州戦は今見返してもものすごく面白いんですが、戦っている選手としては。
「最初はもうケンカみたいなね。殴り合いみたいなのばっかりだったけどね、やってる中でお互いいいもの見せようっていうのか作ろうっていうのか、知らず知らずそういうふうになってきたね。最後は気持ちのいい汗っていうのか、このまま試合が終わんなきゃいいのになっていうとこまで行ったこともあるしね」
‐84年に前田日明さんや長州さんらが大量離脱。藤波さんにも声がかかったと思いますが、新日本に踏みとどまって支える道を選んだ心境は。
「自分の場合は確かにいろんな声はあったにせよ、長州のああいう動きが出た以上、人間の心理として逆の立場を取りたいよね。居座ってやろうじゃないけと。もともとスタートが新日本だったんで、じゃあ反対にここで守ってやろうかとかね。選手それぞれが自分たちの自然の流れで、作られたとか作るとかじゃなくてね。それとやっぱりみんな若い!で、後先を考えないで若さに任せてっちゅうのか。万が一失敗したらっていうのを今の時代は考えるじゃない。先のことを考えないで、今こうやりたいからすぐ行動に移したってのがあの時代だろうね」
‐チャボ戦は名勝負として名高いですが、ロコ戦はどんなところが。
「ロコを例にとって言ったんだけど、確かにヘビー級と違ったトリッキーな動きっていうのか、急にブワーッと回転を上げたような速い動きもあるんだけど、どれをとっても今のファンも見やすいっていうのか。流れがね。矛盾した動きじゃないっていう。特別な動きってのはないんだけど、本来のプロレスを知ってるファンからすれば、ストレートに入っていける動きだろうね」
‐藤波さんの試合はいちいち腑(ふ)に落ちます。僭越(せんえつ)ですが。
「そういうアレしか教わってないからね。猪木さんしかりカール・ゴッチさんしかり。ここでなぜそういう動きになるの?っていうのがまずあり得ない。今の選手は手を取ったり足を取ったりにしても、流れからかけ離れた動きになっちゃうからそういうふうに見られちゃうんだろうけど」
‐85年9月19日に東京体育館で猪木さんとの一騎打ちがありました。
「あの試合はね、切ない試合。当時はそれしかないんだから。前田も長州もみんな抜けた後、どの外国人をもってきて猪木さんとやるかっていう状況じゃなかったし、見せられるものは自分が猪木さんとの対戦をっていう、新旧交代じゃないけどそういうのを少しずつ表に出てた時代だから、自分と猪木さんがメーンイベントをやるしかなかった。猪木さんもつらかっただろうね。そういう精神状態の中で、新日本プロレスのお家事情の中で自分を相手にしなきゃならないっていうね。自分は対猪木さんで100%気を向けていけばいいだけなんだけど、猪木さんはそういうアレとは違った部分で、選手の層の薄くなっていく部分と、猪木さんの個人的ないろんなつらさもあっただろうけど、穏やかじゃなかったんだろうなっていう。1つ救いがあったのは、あのころってプロレスファンがプロレス界にものすごく思い入れを持って見ていたよね。歴史のある体育館での猪木さんとの戦いっていうのはいろんなものをみんなそれぞれオーバーラップして見ているから。ファンはいきさつを知ってるわけだから。ましてや新日本プロレスがどうなるんだろうとか。そういうものがあってとにかく2人がいい試合して頑張ってもらわないと、自分たちが新日本プロレスを後押しできなくなってしまうっていう、それくらいファンが熱かったね」
‐85年12月12日、宮城県スポーツセンターのIWGPタッグリーグ戦優勝決定戦で猪木さんにフォール勝ちして世代交代になるのかと思いきや、前田さんや長州さんが復帰したり、猪木さんが国政に進出したりで混沌(こんとん)としました。
「僕と長州にしてもお互いスキあらば上に行こうっていう自然の流れで動いてたんでね。当時は誰一人としてノンビリとはやってなかったね。試合をして巡業をこなしてはいるんだけど、どっかでキャラクター作りじゃないんだけど、自分を上げていこうっていう意識はそれぞれ持ってたと思うよ。芸能界もそうなんだろうけど、1人のスターを作ろうと思ったら会社全体でそういうふうな形でもっていくわけじゃない?でもそうする必要がない。新日本プロレスは選手みなそれぞれがそういう意識でいたからね。その中で取り組みさえ組めば自然とリング上で繰り広げられるし、ファンがそれについてくるって状況だったからね」
‐猪木さん中心の新日本から藤波さんや長州さんたちの世代がメーンに変わったのはいつごろだったと思われますか。
「ハッキリと自分で思ったこともないし、そういうのをあえてあからさまにするのはまず当時の猪木さんにしろ新日本プロレスにしろあり得ないんだよね。猪木さんが身の置き場を自分との沖縄(88年4月22日・奥武山体育館から始まった『飛龍革命』)、横浜の戦いの後にね、国会の方に(身を)置いたっていうのはね、やっぱりあの人なりの考えっていうのか、我々よりも1つ世代が違うわけだから、わかるような気がする。でもレスラーはレスラーでね、猪木さんがいくら立場、身の置き場を変えても気持ちはやっぱりリング上のレスラーなんだよね」
‐昨年、猪木さん率いるIGFで藤波さんの40周年記念試合シリーズが行われました。99年から04年にかけて、藤波さんが新日本の社長として猪木事務所との関係で大変苦労されていたのを担当として目の当たりにしていたんですが、今回やはり藤波さんにとって猪木さんは特別なんだとあらためて痛感しました。
「自分がそういうふうに思うか思わないかだろうね。自分が現役でいる以上は猪木さんっていうのは消しちゃいけない人だろうしね。プロレス界がある以上は猪木さんは消しちゃいけないし、そういう思いがあるから僕は常に猪木さんの名前を出すし。これからどうなろうがプロレスは自分だけで(終わり)ってのがあれば、別にそういうのは表に出す必要がないだろうし、リスペクトもする必要もないだろうし。でもプロレス界はどっかで形を残していかなければならないなって」
‐00年から01年にかけての引退カウントダウンや03年の引退宣言などがありましたが、今も現役を続行しているのは。
「社長をやっている時、苦し紛れの引退宣言っていうのか、本意じゃないんだよね。新日本プロレスを守らんがための引退宣言なんだよね。引退って言葉を引き替えにそれを興行にしたかったっていう。社長を続けてれば引退してたろうね」
‐社長を辞められて良かったと思います。
「自分自身もそう。でもやっぱりそれだけ状況が厳しかったよね。東京ドームっていうのもあるし、新日本プロレスのお家事情もあったし」
‐20日の後楽園大会は40周年のファイナル。5月5日にはレジェンドの巌流島大会もあります。今後、レスラー・藤波辰爾の目指すところは。
「体がリングに立てる以上は立っていきたい。プロレスが好きだからね。リング上ってのは自分からは切り離せないね」
◇ ◇
藤波 辰爾(ふじなみ・たつみ)1953年12月28日、大分県出身の58歳。70年に日本プロレス入門。翌年デビュー。72年に新日本旗揚げに参加。78年にはWWWFジュニアヘビー級王座獲得。81年ヘビー級転向。99~04年は社長。06年退団し、無我ワールドプロレスリング旗揚げ。08年にドラディションに改称。タイトルはWWFインターナショナルヘビー、IWGPヘビーなど。得意技はドラゴンスクリュー、飛龍裸絞め。身長183センチ、体重105キロ。血液型O。家族は妻と一男一女。
▼new! 藤波辰爾デビュー40周年記念DVD-BOX
5月16日発売!Jr.ヘビー級時代の激闘から長州力との名勝負、そして猪木への挑戦“飛龍革命”名シーン凝縮4枚組!!
・ 前田日明インタビュー(デイリースポーツ&週刊プレイボーイ)イッキ読み~ドラゴン計画を完全否定: カクトウログ
■□T.SAKAi
[プロレス・格闘技人気ブログランキング]
= 事実誤認・誤字指摘メール =
左サイドバーのココログマーク下から直通メール→大変助かります。
カクトウログへの苦情やご希望もお寄せください。
===========================
[カクトウログ■TOPページに戻る▲]
« 12キロダイエットのザ・グレート・サスケ、「かっこいいカラダ」表紙モデル記念トークライブが決定! | トップページ | アントニオ猪木、藤波辰爾、小橋建太へ! 手紙をレスラーに続々送る総理に明るい未来見えた? »
« 12キロダイエットのザ・グレート・サスケ、「かっこいいカラダ」表紙モデル記念トークライブが決定! | トップページ | アントニオ猪木、藤波辰爾、小橋建太へ! 手紙をレスラーに続々送る総理に明るい未来見えた? »